Farewell

 もうずいぶんと長いこと、夜空の星を見ていた。その強さをさまざまに瞬く星々は数え切れないほどで、彼はそれをいつまででも見ていられるような気がした。彼の頭上の天球には、この世のすべての星が同時にちりばめられていたのだ。彼はそのことを不思議に思い、端から数え上げてみたり、記憶の限りに星座を描いたりしていた。けれども、天球と星々の秘密はいよいよ明かされることがなく、やはりすべての星々がそこにあって、それでいてまさしく天球なのだった。

 

「半信半疑、というか正直全く信じないでついてきたけど、ここからは本当にこの世のすべての星が見えるんだね。ここは本当に素晴らしいところだ。ここに来られただけでも、君に出会えてよかったと思うよ。」

 彼は隣に座る女性、彼をここに連れてきてくれた女性に話しかけた。星を眺めていた彼女はゆっくりと顔を彼の方に向けると、まどろむような笑みを浮かべた。普段であれば内面の気の強さをキラキラと放射する両の目も、今ばかりは穏やかな光を映していた。余った熱がゆっくりと染み出ているかのように、白い頬には緩い紅色が差していた。それでいて明るい茶色の髪が風に揺れる様子は涼し気で、彼女が感じる心地よさが、そのまま見る人にも伝わるような、そんな印象だった。

「やっぱり来てよかったでしょ。言うことの調子がよくて少し腹が立つけど、今日の所は勘弁しておいてあげる。これに懲りたら、二度と私を嘘吐きなんて呼ばないことよ。」

「嘘吐きとまでは言ってないけど、しつこく疑ったことは反省してるよ。ただ、同時にぜんぶの星が見える空なんて、とても信じなれなくてさ。……見ている今でさえ、言葉にした途端信じられないような気がしてくる。でも、見上げれば星々はそこにある。……この空の秘密を君は知っているの?」

 責めるような雰囲気を表面上で繕いつつも、彼女はどこか嬉しそうだった。普段と違って優しい彼女の声色に内心驚きつつも、彼は星空について質問を投げかけた。すべての星を収める空について、もう長いこと考えていたが、やはり彼には分からなかったのだ。彼女にそれを尋ねることにはいくらか敗北感を覚えたが、もう正直お手上げというところだったし、残された手段はそれしかないように彼には思われた。そしてまた、その深淵な秘密を知ることができるなら、自分の感情なんてものの数でもないように思われたのだった。

 

 彼女の笑みが、すっと引いていくのが見えた。

「夜はまだ長いし、少しは自分で考えなよ。」

 彼女は軽蔑したようにそう言うと、そのまま上半身を後ろに倒した。彼は一瞬呆気にとられたが、ふぅとため息をつくと、そのままの態勢で顔を上に向けた。彼女が気分屋なのは昔からで、今更思うことはあまりなかった。少し時間がたてば機嫌も直るだろうと考えて、とりあえずは言われた通り、もう少し自分で考えることにした。とはいえ、彼にはもう考えるようなことは残されていなかったから、結局もう一度星を数え上げていくことにした。明るいものから順番に、ひとつ、ふたつと、その輝きを目で数えて進んでいった。どこまで数えたか分からなくなるたびに数え直すため、その歩みは遅々としたものだった。ただ、彼女の言う通り夜はまだ続くようで、明ける気配がないどころか、むしろ深まっていくように感じられた。しばらくすると彼は、暗い夜空とないまぜになったように眠気が降りてくるのを感じた。彼はゆっくりと上半身を倒し、涼しい風と、横に並ぶ彼女の熱とを遠く感じつつ、先ほどまでよりもさらにゆっくりと、星を数え続けた。

 

 彼の目を覚まさせたのは、顔をくすぐる草の葉の感触だった。湿った土のにおいに、ひどく懐かしい気分になった。仰ぐ夜空は変わらず暗く、一揃いの星々も変わらないままだったが、寝ていた時間がわずかなのか、ほとんど丸一日だったのか、あるいはそれ以上だったのか、彼には分からなかった。ぼんやりとした頭を横に向けると、彼女は仰向けになったまま、変わらず空を見ているようだった。少し和らいだ雰囲気から、彼女の機嫌が直ったことが彼には分った。

「空のこと、星のこと、何か分かった?」

 顔の動きを視界の端で捉えたのか、ゆっくりとした口調で彼女が尋ねた。彼女の声は彼が想定したよりもずっと冷えていて、ただ機嫌が直ったでけでなく、また別の方向に損なわれたようにも感じられた。あくびを噛み殺しつつ、彼は顔を上に戻した。眠ってしまうまでの記憶が少しずつ甦ってくる。何度か星を数え直して、ぼんやりとした頭で星座を作って、結局何も分からなかった。全体を一度に視界に収めようともしたが、曖昧に昏くなるだけで、そんなことをしているうちに眠ってしまったのだった。

「分からなかった。ヒント。」

 問いかけに一瞬剣呑な雰囲気が漂ったが、それはすぐに風に流されていったようだった。なんとなく、彼女が笑っているような気がした。少し間をおいた彼女の声は、夜風に涼んでいた最初の頃のように穏やかな調子だった。弱く吹く風の中、返す言葉は空中を泳ぐようで、星の光を反射して輝く髪の一本一本が彼には見えるようだった。

「うーん、ヒントと言われても困るけど。そもそも何が不思議なの? あなたの家からでも星は見えるでしょ?」

「うん? それは見えるけど、そのときどきの星が少し見えるだけだよ。こんな風にたくさんの星が同じ空に収まって一度に見えることはないから、それが不思議なんだよ。」

「……私には何が違うか分からない。あなたの家からでも、時間と場所に応じた星は見えるんでしょ? ここからも、時間と場所に応じた星が見える。それだけのことじゃないの?」

 彼女が段々と不機嫌になっているように思え、彼は何も答えなかった。そんなはずはないだろうと思ったが、現に頭上にはすべての星が見えていて、きちんと夜空に収まっているのだ。そういうこともあるのかもしれないと、彼は半ば自分に言い聞かせるように考えた。であれば、ここはどこで、いまはいつなのだろう。長いこと星空のことばかり考えていた彼の頭は、その過誤を認めつつも、新しい問いへ向かっていった。彼女と会ったのは、昼過ぎか、夕方だったような気がした。この世のすべての星が見えるところがあると言われて、何本か電車を乗り継いだ。始めて降りた田舎の駅はもう暗かったが、まばらな街灯の下をここまで歩いてきた。どれくらいの間どこを歩いていたのか、彼にはもうよく思い出せなかった。明かされない秘密の長い夜は、生まれてからずっとその下にいたかのようにすら感じさせるようだった。

 

「ところで、今何時くらいか分かるかな? 変に寝たせいではっきりしないんだよね。」

 さすがの彼女も時間をきかれただけで怒ることはなかろうと、彼は事もなげに尋ねた。事もなげに尋ねたつもりだったが、彼の声は少し震えていて、他人の口から出たようなその妙な響きに、彼自身不安になるようだった。風はやはり心地よかったが、さすがに長時間の夜の屋外は身体を冷やしたのだろうか。彼はまた自分に言い聞かせるように、そんなことを考えた。

「心配しなくても、まだ夜は長いよ。」

 いつか聞いたような言葉を繰り返してはぐらかすような彼女の声は彼のそれ以上に不安げで、何かに怯えるようですらあった。彼の記憶の中で、彼女がこんな弱気な声を響かせたのははじめてのことだった。彼女はいつも自信ありげで、訳知り顔で、自分に任せておけばすべてうまく行くと、そういう物言いをする人間だった。すこしぎょっとして横顔を盗み見ると、彼女は母親を看取る子どものような、不安に打ち震えつつ、しかし勇気を振り絞るような、そんな切実な表情をしていた。ほかならぬ彼女にそんな顔をしてほしくないと、彼は強く思った。

「……何か気にかかることでもあるの?」

 彼は口調が落ち着いたものになるよう注意を払いつつ、それまでより少し小さな声で尋ねた。そのか細い響きは空気を縫って進むようで、思いとは裏腹に、その緊張した重苦しさを強調するようだった。

「……ないよ。あなたこそ何? 帰りたいの? それならそうはっきり言いなよ。」

 彼女はいらだちを隠さずに答えたが、その示されたいらだちが身を守るためのものであることが彼にはすぐに分かった。それだけに、隠された不安と虚栄心とが、彼にはじかに感じられるようだった。それらの感情はやはり彼の知る彼女には似合わないように感じられたが、しかし今まで見てきたどの彼女よりも彼女らしくもあり、彼は、自分の不十分な理解に恥じ入るような気持ちになった。彼女の奔放な振る舞いに振り回されつつも、一方で彼はそれを日の光のように享受してきたのであり、しかしその裏に隠された揺らぎに気付くことがなかった。彼女をきちんと知らなければならないと、彼は強く思った。彼の頭が冷えていくためか、風はいっそう冷たさを増していくようで、浮かぶ星の光はくっきりと、意志を持ち始めたかのようだった。

 

「帰りたいなんて言ってないよ。まだ夜は長いんでしょ、ゆっくり話そうよ。」

 少し間をおいて返す彼の口調は、もう震えてはいなかった。返事を待つことなく、彼は上半身をゆっくりと持ち上げた。うっすら汗をかいた背中とTシャツとの間に隙間ができて、空気が小さく入り込んだ。風は冷たく感じられたが、嫌な感じはしなかった。

「でも、いつかは帰るんでしょ。……それなら結局同じことだよ。話すことなんて、何もないよ。」

 拗ねた子どものように、しかしそんな自分に嫌気がさしているように、仰向けのままの彼女が小さくこぼした。

「それはもちろんいつかは帰るよ。それなりにやらなきゃいけないことは多いし気がするし、あまり遅くなると心配する人もいるかもしれないし。でも、今すぐにってことはないよ。まだ夜は更ける一方だし、まだまだ時間はあるよ。」

 彼は慰めるように言ったが、彼女の機嫌は直らないようだった。彼女は見るからに柔らかそうな動きで身体をひねらせ、彼の方に背中を向けた。ふわりとした灰色のワンピースは彼女の輪郭をぼかしていたが、その背中は彼が思っていたよりもずっと小さく見えた。

「やらなきゃいけないことなんて、どうせやらなくてもいいことだよ。帰りが遅くて心配する人なんて、きっと心配なんてしてないよ。どうせ帰るなら時間はないのと同じだよ。変える場所なんてないのに、帰ったっていいことなんかないのに。」

 背中越しにゆっくりと、一音一音が綺麗に透き通る声で、彼女は言った。その言葉の裏側の感情はありったけの絵の具を混ぜた黒色のようで、彼に推し量ることはできなかった。それでも混ざり合った多くの色は直接に感じられるようで、その混交は最終的な悪意の色以上に彼の胸に鋭く響いた。瑞々しい希望の色、午後の日なたの緩んだ幸せの色、白んだ空の優しさの色。それらを振り返る諦めと失望の目線が、彼の目線とぴったり重なる気がした。彼女の目は夜の空のように暗く、その向こうには輝く星が見えた。夜空と星の秘密が、ようやくわかった気がした。

 

「それでも帰るよ。いいことなんかなくて、悪いことしかなくても。帰って、君でも僕でもない誰かに、今日の夜空の話をしたいから。どこかで出会って、長い夜を一緒に過ごした君の話をしたいから。今まで、本当にありがとう。」

 言うと彼は立ち上がって、ズボンを軽くたたいた。土のひとかけらさえ、ズボンから落ちることはなかった。

「……ひとりで帰れるの?」

 彼が顔を上げると、目の前には彼女が立っていた。彼女の顔は悲しそうだったが、それでも何か憑き物が落ちたような、涼しげな表情だった。

「うん。」

 赤くなった目じりに水滴が光り、そのまま風に流されていった。小さな光は黒から透明に変わって、そしてすぐに見えなくなった。一人残された彼は、立ち昇る日の熱を感じながら、ゆっくりと右足を踏み出した。靴のつま先がほんの少し地面をえぐって、柔らかな土がぽろぽろとこぼれた。