(読書メモより)円城塔 『道化師の蝶』

No.4-31

Date 20.2.2

円城塔 『道化師の蝶』、講談社文庫、2015、~2020.1.26

 

「『あなたたちは真実だけを書くわけではないでしょう。真実だけを書くわけではないのに、真実さえも書ききれない』」、134

「ヒト族の最初の言葉は歌だった」、171

 どちらも「松ノ枝の記」より、後者が五七五になっているのが象徴的。特に「松ノ枝の記」だが、文意も怪しくしかとれないのに、語の印象と文の響き、リズムで読ませるような文章だったように思う。小説ではあるが、同時に詩、歌であるような印象で、かなり好きな文体だった。それでいて、恐らく整理すれば明晰な筋もある(少なくとも可能な筋は)のだろうと思う。それを味わていないことを悔やみつつ、けれど歌としての美しさを感じる読書も有意義だとは思う。小説の可能性として、とても参考になった。他の作も読んでみたいと思う。

 「道化師の蝶」は、銀の捕虫網、着想の蝶というモチーフがまず美しい。蝶は浮かんでは消えるあの感じのことと思うが、言語そのものの働きとも似たところがあるように思った。個人の思索や想念は、素朴な言い方をすれば意識と無意識の間を飛びかう。人は言葉で考えるが、言葉が人で考えることもあろう。作者が考える以上のことを、言葉が、ときに起源と未来を参照しつつ考える。円城塔の文体が、多層的な言語活動を体現しているような、そんな気もした。「胡蝶の夢」とも言う。言葉で考えるつもりの人間は、あるいは人間を考える言葉かもしれない。「パリュウド」の前書きを思い出した。「筆耕的部分が少なければ少ないほど、神のもてなしが大きければ大きいほど、著作の価値は大きいのだ」と。言葉はあるいは神か。ニーチェによる神の死は、永遠回帰の思想か。夢の夢を見る。回帰が回帰する。「来るべき書物」は、そのものとして現前することがない。その断片たる「骰子一擲」は、常に偶然に委ねられてあるだろう。これもまたひとつの歌……。

 何となく感想まで浮いてしまったが、まぁこういう読書だった気もするのでよしとする。

 思えば「松ノ枝の記」も言葉が考える人間の話だったと、今更ながら気づく。自動書記というテーマも、ブランショが取りあげていた。何となく自動書記のイメージが悪かったから不思議だったが、「言葉が考える」という意味では近い話であった。折角なのでもうひとつ思い出したものを足しておくと、ボルヘスの図書館も近いところにあるように思う。あらゆる作品は、文字の有限個の組合せとも言える。回帰の思想において、言葉が考えるのであれば……、ピエール・メナールと共に、あの前書きに戻ることになった。「到る所に万物の啓示を期待しよう、公衆からは吾々の制作の啓示を期待しよう。」

 「来るべき書物」が来ることはない。私たちはしたがって、到る所に期待をするほかはないのだろう。

「そうしてペンを拾い上げ、固く締め上げられた腕をゆっくりと、一筆一筆動かしはじめる」、172