うつつうつろにうつりうつろい(2)

 これも違う。これも、違う。お腹を空かせて入ったスーパーで、気分にぴったり合うお弁当を選ぶような難しさ。違うのは、お弁当なら妥協ができるが、ここではそれができないことだ。一方、少し困った共通点がある。色々見ているうちに、元々求めていたものが分からなくなることだ。これは、多分違う。いや、確かに違う。違うはずだ……。

 

「ミサキくん、ミサキくんってば。聞こえてますかー?」

 柊は、いつの間にか隣に座っていた岬の声で現実に引き戻された。スマートフォンから流れる音楽は、人の声が聞こえないほどの大音量ではなかった。音楽にかなり集中していたのだろう。素早くイヤホンを取り外し、柊は謝罪する。

「すみません、少しぼうっとしていました。以後気をつけます。それはそれとして、お疲れ様です。」

 岬に気を悪くした様子はない。人を小ばかにしたような表情と声は、いつもと変わる所がない。

「柊くんこそ、お疲れ様。仕事量を増やした淡ちゃんが言うのもなんだけれど、あまり根詰めないことだよ。心頭滅却して灰になられては、誰の得にもならないからね。まぁ、ほどほどに無理をしてくれたまえよ。ところで、柊くんも音楽をじっと聴くなんてことがあるんだね。淡ちゃんは勝手に、柊くんは文字しか愛せないのだと決めつけていたよ。何だろう、悪かったね。」

 岬はまったく悪いと思ってなさそうにそう言う。返答する柊も、岬の認定に反論する気ははなさそうだった。

「文字しか愛せないわけではないつもりですけど、実際音楽をただ聴くことは滅多にないです。僕に音楽は曖昧過ぎてよくわかりません。今日は少し、思うところがあっただけです。」

「いつも主張のないミサキくんの、思うところ! それはぜひご高説賜りたいところだねぇ!」

 岬は愉快気な様子を隠さない。高慢な政治家を風刺したような、岬一流の、あの雰囲気を醸し出し始めている。

「大した話ではないですよ。あと、これはいつも言っていますけど、下の名前で呼ばないでください。それで、言わなきゃ駄目ですか?」

 岬のからかうような口調に対する不快感は言葉だけで、柊はむしろどこか申し訳なさそうに言う。その様子は何かを恐れているようでもあった。岬もそんな柊の様子から何かを感じ取ったようで、その表情と口調とは、優しさを感じさせるものに変わっていった。

「駄目ってことはないし、嫌なことを強制するつもりはないよ。でも私には、柊くんは日頃から過度に秘密主義に感じられる。多分柊くんはもう少し警戒心を緩めた方がいいし、何より私はもう少し気を置かずに接してもらえると嬉しいかな。」

 柊は少し黙っていたが、話すかどうか迷っていると言うよりかは、話すための言葉を探しているようだった。

「名前を知らない曲を探しているんです。」

「名前を知らない曲?」

 岬は予想を外したからか、話の筋が見えないからか、訝し気に繰り返した。

「はい。窓の外から聞こえてきた曲で、曲調からして多分西洋のクラシックです。」

 柊の何かを恐れるような様子はすでに消えていて、いつも通りの、外界に無関心気な雰囲気に戻っていた。

「名前の分からないクラシック……。録音とかはしてあるの?」

「してないです。すぐに聞こえなくなってしまったので。適当にクラシックのメドレーを検索して、見つからないものかな、と。」 

 岬はふむふむ、と曖昧に発音しながら、なにやら思案顔である。柊はその顔を見て、この後の展開を読むことができた。岬が話の途中に間を設けてこの顔をしたときには、一旦少し遠くに離れる準備をしているのだ。今の文脈に思い通りの回答をするため、あるいは思い通りの場所に人を誘い込むため、一度迂回する。その迂回路に案内されるとき、柊はいつも迷子になったような気持ちになる。しかしそれでいて、何となく心地よい道なのだ。あるいはこの道を歩くことが、本当の目的であったかのような。柊は岬のこの話し方に実用上の欠点があると考えていたが、実のところ非常に好ましく感じていた。柊にとってそれは、数少ない感じ得る詩的なるものに思われたからだ。

「私は昔、夢を見た気がするんだ。」

 柊の随想は、岬のいつにも増して曖昧な言葉によって中断された。それにしても、夢か。

これは望み薄かと考えつつ、柊は期待で胸を膨らませた。