そうしてまた歩き始める。

 

「わたし来世はクラゲがいいな」

いつか一緒に訪れた水族館で、彼女がそう呟いたのを思い出した。

 

彼女にしてはめずらしい浸った言葉が意外で、彼は視線をクラゲから彼女の方へ移した。彼女は言葉を継ぐことなく口を閉じて、漂う姿をゆっくりと目で追っていた。その横顔がいかにも真剣で、ついて出かけた軽口は引っ込んでしまった。そっか、と詰まり気味に返して、後に沈黙が続いたのを覚えている。

 

「今日は楽しかったね」

何と返したのだっただろうか。それから少しして、彼女とは自然に疎遠になった。そしてもう二度と会うことはない。最後の別れはそれとは知らず過ぎてしまったらしく、思い出にさえならなかった。

 

暗い水の中を、透明の薄膜が漂っている。

 

空を塞ぐ重い雲から、冬の冷たい雨が降り続いていた。雨粒の勢いは激しくもどこか寂しげで、降り落ちることを受け入れつつも、できるだけ長く空中に留まることを望んでいるかのように見えた。冷え固まったアスファルトに叩きつけられて、ぴちゃんと水滴がはねる。

手に伝わる振動が不意に強まって、彼はゆっくりと顔を上に向けた。濡れたビニールの向こうには、暗い灰色が平坦に広がっていた。

 

『わたし来世はクラゲがいいな』

今の自分なら、あの時よりいい答えが返せるだろうか。彼は自問しつつ、濡れて重くなった足を前に進めた。

雨は冷たく、冷え切った身体はよそよそしかった。

(読書メモより)円城塔 『道化師の蝶』

No.4-31

Date 20.2.2

円城塔 『道化師の蝶』、講談社文庫、2015、~2020.1.26

 

「『あなたたちは真実だけを書くわけではないでしょう。真実だけを書くわけではないのに、真実さえも書ききれない』」、134

「ヒト族の最初の言葉は歌だった」、171

 どちらも「松ノ枝の記」より、後者が五七五になっているのが象徴的。特に「松ノ枝の記」だが、文意も怪しくしかとれないのに、語の印象と文の響き、リズムで読ませるような文章だったように思う。小説ではあるが、同時に詩、歌であるような印象で、かなり好きな文体だった。それでいて、恐らく整理すれば明晰な筋もある(少なくとも可能な筋は)のだろうと思う。それを味わていないことを悔やみつつ、けれど歌としての美しさを感じる読書も有意義だとは思う。小説の可能性として、とても参考になった。他の作も読んでみたいと思う。

 「道化師の蝶」は、銀の捕虫網、着想の蝶というモチーフがまず美しい。蝶は浮かんでは消えるあの感じのことと思うが、言語そのものの働きとも似たところがあるように思った。個人の思索や想念は、素朴な言い方をすれば意識と無意識の間を飛びかう。人は言葉で考えるが、言葉が人で考えることもあろう。作者が考える以上のことを、言葉が、ときに起源と未来を参照しつつ考える。円城塔の文体が、多層的な言語活動を体現しているような、そんな気もした。「胡蝶の夢」とも言う。言葉で考えるつもりの人間は、あるいは人間を考える言葉かもしれない。「パリュウド」の前書きを思い出した。「筆耕的部分が少なければ少ないほど、神のもてなしが大きければ大きいほど、著作の価値は大きいのだ」と。言葉はあるいは神か。ニーチェによる神の死は、永遠回帰の思想か。夢の夢を見る。回帰が回帰する。「来るべき書物」は、そのものとして現前することがない。その断片たる「骰子一擲」は、常に偶然に委ねられてあるだろう。これもまたひとつの歌……。

 何となく感想まで浮いてしまったが、まぁこういう読書だった気もするのでよしとする。

 思えば「松ノ枝の記」も言葉が考える人間の話だったと、今更ながら気づく。自動書記というテーマも、ブランショが取りあげていた。何となく自動書記のイメージが悪かったから不思議だったが、「言葉が考える」という意味では近い話であった。折角なのでもうひとつ思い出したものを足しておくと、ボルヘスの図書館も近いところにあるように思う。あらゆる作品は、文字の有限個の組合せとも言える。回帰の思想において、言葉が考えるのであれば……、ピエール・メナールと共に、あの前書きに戻ることになった。「到る所に万物の啓示を期待しよう、公衆からは吾々の制作の啓示を期待しよう。」

 「来るべき書物」が来ることはない。私たちはしたがって、到る所に期待をするほかはないのだろう。

「そうしてペンを拾い上げ、固く締め上げられた腕をゆっくりと、一筆一筆動かしはじめる」、172

今月の振り返り(2019.9)

[9月]

 

 3月末には今年度も終わりかと言うものだし、6月末には今年も折り返しかと言うものだ。したがってこれは思いの外月並みの感想なのだが、早いもので今年度も折り返しだ。

 

 とは言うものの、この半年に関してははやや特殊な半年だったかもようにも思う。それはまず、自分が今までとはかなり異なった社会的身分を背負いこんだことが大きいだろう。体感としては、とにかく時間の経過がはやかった。一瞬一瞬はズルリと継続しているものの、日が暮れて外を歩いていると、朝起きてから日暮れまでがほんの数十分ぐらいに感じられる。ぼんやりした頭で少し本を読んで、また朝出かけると、もう日が暮れている。最近は日没も早くなっていて、日暮れどころか気付いたころにはもう夜だ。次に気が付いたときにはもう中年になっているのではないかと、ときどき不安に思う。

 

 思うに(あるいは、印象を例えて言うと)、自分の思う「私」の割合と、実際に生きる「私」の割合との隔たりが大きくなったのだ。日中の営みは、「私」の構成割合でいうとおよそ1割5部がいいところだろう(これは計算ではなく直感だ)。それにも関わらず、意識のある時間の半分に近いかそれ以上の部分が、実際には費やされている。「私」は希薄になるばかりだ。自分の時間が、自分の手ですくい取れなくなっていくようだ。

 

 「自分探し」と言うと、一時期よく揶揄されていた印象があるし、私自身もそのような態度をとっていた気がするが、その気持ちが最近は少し分かる気がする。こんな風に要領を得ないことを書かせている気持ちが、まさにそれなのだろう。私がなぜこんなところに。こんなところに私はいない。そんな気持ち。

 しかしながら、どこか別のところに自分がいるはずもないし、そんなものは幻覚でしかないのが明らかであるから、まぁ身体は軽いしそう悪くもないかしらと、そんな今日この頃である。

 

 

 

[よかったこと]

 

 筋力トレーニングによく励んだ。連休の埋め合わせもそれなりにできて、大体週に4日は行けていたような気がする。マシンあたりの回数を減らして(大体半分にした)、その分重量を増やし(大体2倍にした)、一日あたりのマシンを増やせば、マシンの上でへばっている時間を削れるのではないかと思ったが、そんなことはなかった。かかる時間は1.5倍ぐらいになってしまった気がする。

 

 プリパラを10話弱ぐらいみた。別に頑張ってみているわけではないから、偉かったかのかと言うとそうでもないのだが、何であれ継続して数字が増えていくことは嬉しいことだった。見るたびに感想を書いているのであえてここで書くこともそこまではないのだが、最近はよくパラダイスコーデのことや、ファルルのことを考えている。

 僕は昔から、世間一般からするとオタクと呼ばれる人種だが「本物のオタク」(こういう言い方というか考え方がまずよくないのということは分かっている)ではないという自覚がある。というのも、アニメや漫画を楽しむものの、特に考察とか長々とした語りができる人間ではないのだ。プリパラに関してはかなり意識してその辺りに取り組んでいて、不格好ながらそれなりに成果もないではないような気がしている。

 

 9月に読み終えた本は、物体としての本で数えて4冊だった。

・イポリット「ヘーゲル精神現象学の生成と構造 上巻」

・バルガス・リョサ「若い小説家に宛てた手紙」

綿矢りさ蹴りたい背中

・イポリット「ヘーゲル精神現象学の生成と構造 下巻」

 「精神現象学」をとりあえず読んだもののよく分からなかったから読んだ「生成と構造」だったのだが、やはりよく分からず、かなり時間がかかった。そもそも筋力トレーニングに時間を使いすぎて読書時間が減っていたこともあり、読書の進みはあまり良くなかったと思う。10月はその辺りの時間調整をしっかりできるようにしたい。筋力トレーニングは端的に言って苦痛なので何かやっている感があるのだが、それだけに言い訳に使っている自覚がふんわりとある。

 

 そのほか、友人と一緒に筋力トレーニングやプールに行ったりできたのはよかった。僕の時間はスカスカの安ものに思われ、それにかこつけて人から声をかけられるのを待ってばかりの僕である。そんな人間に声をかけてくれるのは非常にありがたいことだと常々思っている。

 

 

 

[よくなかったこと]

 

 筋力トレーニングを使って逃げていた読書を使って、逃げからも逃げていたのが、相変わらず書くことだった。最後にほんの少しだけ小説(もどき)を書けたのでまだよかったが、それにしても避けに避ける様子が目に余った。9月の土日および祝日は、実際の所、書くことから逃げ続けていたようにも思う。どうせ誰も見てはいないのだとはわかっているが、怖いものは怖い。なんでこんなに怖がっているのかと言うと、まぁありがちな話ではあるが、失敗することや失望されることに晒されてこなかったからなのだろう。このままズルズルと時間を過ごしても、どんどん怖くなる一方だろうとは思う。こういう気軽な書物などでも利用して、皮膚の柔らかさを調整していけるとよいと思う。

 

 ソシャゲとの関わり方がかなりよくなかった。ポケモンマスターズは何時間かリセマラして、これは本当に言いたくないのだが、3000円ほど課金して、2-3日ほど熱中した後、持病の発作が出てアプリを消した。まぁいつものことと言えばいつものことなのだが。ここに書き留めておくことで、次がないことを祈るばかりである。

 メギド72とアリスギアは、僕の中で盆栽問題と呼んでいる状態を継続しつつも、ダラダラと時間を使っていた。偽物の木だと言うなら早くやめた方がいいし、本物の盆栽として育てていくなら育てていくと決めた方が良い。直感的には、「本物の木」と「本物の盆栽」の間に引かれた線は何の妥当性もない気がしていて、結局無自覚的に遅延をやっているだけになのだと思うが、一方でそこに言い訳をを嗅ぎつけていて、というところである。

 色々のあれこれとは別として(別ではないが)、楽しむことを許せるようにはしていくべきだとは思う。久々に会った高校時代の同級生に、「まだ君は呪いが解けていないね」みたいなことを言われ、あやうく殴りかかるところだった記憶があるが、まぁあながち間違いでもないのだろうと、思ってはいる。

 

 

 

 最初ということもあろうが、今月の振り返りをするつもりがなんかこう微妙な感じになってしまった。幼稚に鬱屈した子どもで恥ずかしい限りだが、まぁそれなりにやっていけるといいなと思っている。

Farewell

 もうずいぶんと長いこと、夜空の星を見ていた。その強さをさまざまに瞬く星々は数え切れないほどで、彼はそれをいつまででも見ていられるような気がした。彼の頭上の天球には、この世のすべての星が同時にちりばめられていたのだ。彼はそのことを不思議に思い、端から数え上げてみたり、記憶の限りに星座を描いたりしていた。けれども、天球と星々の秘密はいよいよ明かされることがなく、やはりすべての星々がそこにあって、それでいてまさしく天球なのだった。

 

「半信半疑、というか正直全く信じないでついてきたけど、ここからは本当にこの世のすべての星が見えるんだね。ここは本当に素晴らしいところだ。ここに来られただけでも、君に出会えてよかったと思うよ。」

 彼は隣に座る女性、彼をここに連れてきてくれた女性に話しかけた。星を眺めていた彼女はゆっくりと顔を彼の方に向けると、まどろむような笑みを浮かべた。普段であれば内面の気の強さをキラキラと放射する両の目も、今ばかりは穏やかな光を映していた。余った熱がゆっくりと染み出ているかのように、白い頬には緩い紅色が差していた。それでいて明るい茶色の髪が風に揺れる様子は涼し気で、彼女が感じる心地よさが、そのまま見る人にも伝わるような、そんな印象だった。

「やっぱり来てよかったでしょ。言うことの調子がよくて少し腹が立つけど、今日の所は勘弁しておいてあげる。これに懲りたら、二度と私を嘘吐きなんて呼ばないことよ。」

「嘘吐きとまでは言ってないけど、しつこく疑ったことは反省してるよ。ただ、同時にぜんぶの星が見える空なんて、とても信じなれなくてさ。……見ている今でさえ、言葉にした途端信じられないような気がしてくる。でも、見上げれば星々はそこにある。……この空の秘密を君は知っているの?」

 責めるような雰囲気を表面上で繕いつつも、彼女はどこか嬉しそうだった。普段と違って優しい彼女の声色に内心驚きつつも、彼は星空について質問を投げかけた。すべての星を収める空について、もう長いこと考えていたが、やはり彼には分からなかったのだ。彼女にそれを尋ねることにはいくらか敗北感を覚えたが、もう正直お手上げというところだったし、残された手段はそれしかないように彼には思われた。そしてまた、その深淵な秘密を知ることができるなら、自分の感情なんてものの数でもないように思われたのだった。

 

 彼女の笑みが、すっと引いていくのが見えた。

「夜はまだ長いし、少しは自分で考えなよ。」

 彼女は軽蔑したようにそう言うと、そのまま上半身を後ろに倒した。彼は一瞬呆気にとられたが、ふぅとため息をつくと、そのままの態勢で顔を上に向けた。彼女が気分屋なのは昔からで、今更思うことはあまりなかった。少し時間がたてば機嫌も直るだろうと考えて、とりあえずは言われた通り、もう少し自分で考えることにした。とはいえ、彼にはもう考えるようなことは残されていなかったから、結局もう一度星を数え上げていくことにした。明るいものから順番に、ひとつ、ふたつと、その輝きを目で数えて進んでいった。どこまで数えたか分からなくなるたびに数え直すため、その歩みは遅々としたものだった。ただ、彼女の言う通り夜はまだ続くようで、明ける気配がないどころか、むしろ深まっていくように感じられた。しばらくすると彼は、暗い夜空とないまぜになったように眠気が降りてくるのを感じた。彼はゆっくりと上半身を倒し、涼しい風と、横に並ぶ彼女の熱とを遠く感じつつ、先ほどまでよりもさらにゆっくりと、星を数え続けた。

 

 彼の目を覚まさせたのは、顔をくすぐる草の葉の感触だった。湿った土のにおいに、ひどく懐かしい気分になった。仰ぐ夜空は変わらず暗く、一揃いの星々も変わらないままだったが、寝ていた時間がわずかなのか、ほとんど丸一日だったのか、あるいはそれ以上だったのか、彼には分からなかった。ぼんやりとした頭を横に向けると、彼女は仰向けになったまま、変わらず空を見ているようだった。少し和らいだ雰囲気から、彼女の機嫌が直ったことが彼には分った。

「空のこと、星のこと、何か分かった?」

 顔の動きを視界の端で捉えたのか、ゆっくりとした口調で彼女が尋ねた。彼女の声は彼が想定したよりもずっと冷えていて、ただ機嫌が直ったでけでなく、また別の方向に損なわれたようにも感じられた。あくびを噛み殺しつつ、彼は顔を上に戻した。眠ってしまうまでの記憶が少しずつ甦ってくる。何度か星を数え直して、ぼんやりとした頭で星座を作って、結局何も分からなかった。全体を一度に視界に収めようともしたが、曖昧に昏くなるだけで、そんなことをしているうちに眠ってしまったのだった。

「分からなかった。ヒント。」

 問いかけに一瞬剣呑な雰囲気が漂ったが、それはすぐに風に流されていったようだった。なんとなく、彼女が笑っているような気がした。少し間をおいた彼女の声は、夜風に涼んでいた最初の頃のように穏やかな調子だった。弱く吹く風の中、返す言葉は空中を泳ぐようで、星の光を反射して輝く髪の一本一本が彼には見えるようだった。

「うーん、ヒントと言われても困るけど。そもそも何が不思議なの? あなたの家からでも星は見えるでしょ?」

「うん? それは見えるけど、そのときどきの星が少し見えるだけだよ。こんな風にたくさんの星が同じ空に収まって一度に見えることはないから、それが不思議なんだよ。」

「……私には何が違うか分からない。あなたの家からでも、時間と場所に応じた星は見えるんでしょ? ここからも、時間と場所に応じた星が見える。それだけのことじゃないの?」

 彼女が段々と不機嫌になっているように思え、彼は何も答えなかった。そんなはずはないだろうと思ったが、現に頭上にはすべての星が見えていて、きちんと夜空に収まっているのだ。そういうこともあるのかもしれないと、彼は半ば自分に言い聞かせるように考えた。であれば、ここはどこで、いまはいつなのだろう。長いこと星空のことばかり考えていた彼の頭は、その過誤を認めつつも、新しい問いへ向かっていった。彼女と会ったのは、昼過ぎか、夕方だったような気がした。この世のすべての星が見えるところがあると言われて、何本か電車を乗り継いだ。始めて降りた田舎の駅はもう暗かったが、まばらな街灯の下をここまで歩いてきた。どれくらいの間どこを歩いていたのか、彼にはもうよく思い出せなかった。明かされない秘密の長い夜は、生まれてからずっとその下にいたかのようにすら感じさせるようだった。

 

「ところで、今何時くらいか分かるかな? 変に寝たせいではっきりしないんだよね。」

 さすがの彼女も時間をきかれただけで怒ることはなかろうと、彼は事もなげに尋ねた。事もなげに尋ねたつもりだったが、彼の声は少し震えていて、他人の口から出たようなその妙な響きに、彼自身不安になるようだった。風はやはり心地よかったが、さすがに長時間の夜の屋外は身体を冷やしたのだろうか。彼はまた自分に言い聞かせるように、そんなことを考えた。

「心配しなくても、まだ夜は長いよ。」

 いつか聞いたような言葉を繰り返してはぐらかすような彼女の声は彼のそれ以上に不安げで、何かに怯えるようですらあった。彼の記憶の中で、彼女がこんな弱気な声を響かせたのははじめてのことだった。彼女はいつも自信ありげで、訳知り顔で、自分に任せておけばすべてうまく行くと、そういう物言いをする人間だった。すこしぎょっとして横顔を盗み見ると、彼女は母親を看取る子どものような、不安に打ち震えつつ、しかし勇気を振り絞るような、そんな切実な表情をしていた。ほかならぬ彼女にそんな顔をしてほしくないと、彼は強く思った。

「……何か気にかかることでもあるの?」

 彼は口調が落ち着いたものになるよう注意を払いつつ、それまでより少し小さな声で尋ねた。そのか細い響きは空気を縫って進むようで、思いとは裏腹に、その緊張した重苦しさを強調するようだった。

「……ないよ。あなたこそ何? 帰りたいの? それならそうはっきり言いなよ。」

 彼女はいらだちを隠さずに答えたが、その示されたいらだちが身を守るためのものであることが彼にはすぐに分かった。それだけに、隠された不安と虚栄心とが、彼にはじかに感じられるようだった。それらの感情はやはり彼の知る彼女には似合わないように感じられたが、しかし今まで見てきたどの彼女よりも彼女らしくもあり、彼は、自分の不十分な理解に恥じ入るような気持ちになった。彼女の奔放な振る舞いに振り回されつつも、一方で彼はそれを日の光のように享受してきたのであり、しかしその裏に隠された揺らぎに気付くことがなかった。彼女をきちんと知らなければならないと、彼は強く思った。彼の頭が冷えていくためか、風はいっそう冷たさを増していくようで、浮かぶ星の光はくっきりと、意志を持ち始めたかのようだった。

 

「帰りたいなんて言ってないよ。まだ夜は長いんでしょ、ゆっくり話そうよ。」

 少し間をおいて返す彼の口調は、もう震えてはいなかった。返事を待つことなく、彼は上半身をゆっくりと持ち上げた。うっすら汗をかいた背中とTシャツとの間に隙間ができて、空気が小さく入り込んだ。風は冷たく感じられたが、嫌な感じはしなかった。

「でも、いつかは帰るんでしょ。……それなら結局同じことだよ。話すことなんて、何もないよ。」

 拗ねた子どものように、しかしそんな自分に嫌気がさしているように、仰向けのままの彼女が小さくこぼした。

「それはもちろんいつかは帰るよ。それなりにやらなきゃいけないことは多いし気がするし、あまり遅くなると心配する人もいるかもしれないし。でも、今すぐにってことはないよ。まだ夜は更ける一方だし、まだまだ時間はあるよ。」

 彼は慰めるように言ったが、彼女の機嫌は直らないようだった。彼女は見るからに柔らかそうな動きで身体をひねらせ、彼の方に背中を向けた。ふわりとした灰色のワンピースは彼女の輪郭をぼかしていたが、その背中は彼が思っていたよりもずっと小さく見えた。

「やらなきゃいけないことなんて、どうせやらなくてもいいことだよ。帰りが遅くて心配する人なんて、きっと心配なんてしてないよ。どうせ帰るなら時間はないのと同じだよ。変える場所なんてないのに、帰ったっていいことなんかないのに。」

 背中越しにゆっくりと、一音一音が綺麗に透き通る声で、彼女は言った。その言葉の裏側の感情はありったけの絵の具を混ぜた黒色のようで、彼に推し量ることはできなかった。それでも混ざり合った多くの色は直接に感じられるようで、その混交は最終的な悪意の色以上に彼の胸に鋭く響いた。瑞々しい希望の色、午後の日なたの緩んだ幸せの色、白んだ空の優しさの色。それらを振り返る諦めと失望の目線が、彼の目線とぴったり重なる気がした。彼女の目は夜の空のように暗く、その向こうには輝く星が見えた。夜空と星の秘密が、ようやくわかった気がした。

 

「それでも帰るよ。いいことなんかなくて、悪いことしかなくても。帰って、君でも僕でもない誰かに、今日の夜空の話をしたいから。どこかで出会って、長い夜を一緒に過ごした君の話をしたいから。今まで、本当にありがとう。」

 言うと彼は立ち上がって、ズボンを軽くたたいた。土のひとかけらさえ、ズボンから落ちることはなかった。

「……ひとりで帰れるの?」

 彼が顔を上げると、目の前には彼女が立っていた。彼女の顔は悲しそうだったが、それでも何か憑き物が落ちたような、涼しげな表情だった。

「うん。」

 赤くなった目じりに水滴が光り、そのまま風に流されていった。小さな光は黒から透明に変わって、そしてすぐに見えなくなった。一人残された彼は、立ち昇る日の熱を感じながら、ゆっくりと右足を踏み出した。靴のつま先がほんの少し地面をえぐって、柔らかな土がぽろぽろとこぼれた。

0

「あなたにだけ教えてあげる。誰も知らない、ううん、知ってるはずなのに忘れたふりをしている、わたしの秘密。そんな小難しいだけの本なんかよりよっぽど重大で、切実で、絶望的なわたしの秘密。」

 

 緋花は緩く笑みをつくりながらそう言うと、ゆっくりとスカートのファスナーを下ろした。薄いピンクのスカートは、明るい茶髪に白い肌、全体的に色素の薄い喪花によく似合っていた。スカートがはらりと下に落ち、両端の紐で留められた水色の布が露わになる。緋花はスカートを踏み越えて恒太に近づくと、その読んでいた本を取り上げ、後方へ肩越しに放り投げた。本が床に打ちつけられ、ページがひしゃげる音が響いた。

 

 「お前の秘密になんて興味ない。止まれ。それ以上俺に近づくな。」

 

 最初に出会ったときから恒汰にとって緋花は不気味な人間だったが、今ほどそう感じられたことはなかった。身体の内から発せられる警戒音に従って静止を命ずるも、緋花は止まることなく、笑みをほんの少し深めるだけだった。過ごしなれたはずの自室がひどくよそよそしく感じられ、部屋に満ちた夏の空気にもかかわらず、恒汰は寒気を覚えた。その寒気は目の前の外敵から一刻も早く逃げるべきであることを伝えていたが、恒汰の身体はすでに凍りついてしまっていた。

 

 「わたしにはね、棘があるの。わたしに与えられた意味の重さの代償か、それも意味そのものなのかは分からないけど、わたしなんかよりよほど高慢な誰かに与えられた抜けない棘が。」

 

 普段から白い緋花の肌が、さらに白くなっていくように、恒汰には感じられた。言葉をこぼす唇の赤はそれに応じて鮮やかで、視覚も聴覚も、もう自由に働かせることはできなかった。緋花の左手が指先から小さく動きだした途端、身体に震えが走り、視線はその指先に吸い込まれた。陶器のように白くすべらかな手が、水色のリボンに音もなく触れた。その指の感触が、凍える恒汰には直に分かるように思われた。陶器の印象に反してやわらかなその肌は、触れた瞬間にふわりとほどけて、互いの輪郭を溶けあわせるかのようだった。身体に浸みこんでくる緋花の肌に、全身の器官が狂わされていくのが感じられた。リボンがとかれ、水色の布がゆっくりと下に落ちた。すべての動きが切れ目なく続くようで、声など出せるはずもなかった。

 

 「……見て。……これがわたしの棘、おぞましいほど綺麗でしょ。」

 

 確かにそれはあるはずのない棘、おぞましい容貌で、しかし例えようもなく綺麗だった。鮮やかな赤は白い肌とコントラストをなして、恒汰の視線を永遠に縫い留めるかのようだった。もう動かし方も思い出せない口がひとりでに動いて、誰のものか分からない言葉を紡ぐ。その声はもう聞こえなかった。

新年、空気も巡り

 境内は人で溢れていて、普段は人気の無さを強調している色褪せた鳥居も、今日ばかりはどこか風格を感じさせた。

 その鳥居を柊がくぐったのは、待ち合わせ時刻の10分前だった。恐らくまだ来ていないだろうと思いつつ周囲を見渡した柊はしかし、人ごみの中に彼女を認めた。新年早々彼を呼びつけた相手である岬は、体格も平均的で目立つ格好もしていなかったが、柊がその姿を見落とすことは考えられなかった。というのも、彼女は彼に向けて、両手を大きく振っていたからである。岬は周囲の目をそれらりに集めていたが、それを気にするような様子はほんの少しも見られなかった。目立つことを好まない柊は近寄りたくなかったが、状況として岬を待たせているということもあり、ポーズ程度の早歩きで彼女の方へ向かっていった。

 

「すみません、お待たせしました。」
 柊は挨拶よりも先に、遅れたことを謝罪した。とはいえ、柊は待ち合わせ時刻に遅れていないことを知っていたし、ここに来たのも岬に当日連絡で呼びつけられたためであった。元日に当日連絡で、応じる人間はそう多くはないだろう。そんな意識は態度に透け出ていて、謝罪は気持ちのこもらない、普段の挨拶と変わらないような雰囲気だった。
「別に待ってないから大丈夫だよ。でもその調子じゃ、ミサキくんは今年もダメダメっぽいね。まぁいいや、もっと言うべきことがあるでしょ、ほら、みんなやってるやつだよ。」
 岬は手足や鼻先を赤くしていて、服も気温からすれば薄着だったが、機嫌を損ねたような様子はなかった。他人をからかうような薄ら笑いをいつも通りに浮かべ、やはりどこかふざけたような口調で軽口を叩いている。柊は、気に入っていない自分の下の名前が少し気に障ったが、岬の要求に応じることを優先した。岬の要求したものはすでに頭に浮かんでいたものであり、答えるために頭を悩ます必要は無かった。
「明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。」
「はい、おめでとう。今年もよろしくね。うん、ちゃんと言えて偉かったね、お姉さんがお年玉をあげようか、ほら。」
 柊の挨拶は定型そのままのものであり、先の謝罪よりもさらに気持ちがこもっていないようなものだった。しかし岬は満足げな笑みを浮かべると、やはりどこかばかにしたような態度で、厚みのあるポチ袋を差し出した。ただ、その厚みは不自然なもので、用途通りのものが入ってないようことが一目で分かるものだった。 
「下の名前を呼ぶのもそうですけど、そういう態度もやめてもらえると助かります。……これ、何が入ってるんですか?」
 柊は岬の態度を咎めつつ、訝し気にポチ袋を受け取った。本当にお年玉なら受け取るわけにはいかなかったが、中に何か別のものが入れられていることは明白で、それならば受け取らないわけにもいかなかった。柊がすぐに中身を確かめようとすると、その手は岬の手によって抑えられた。手は軽く添えられただけで、そのまま開けることは簡単だった。しかし触れた手の冷たさは自分の手も凍らせるかのようで、驚きから柊は手を止めた。
「まぁそう焦るものでもないよ。先にあの列に並んで、そこで話を続けるとしようじゃないか。」
 岬が手で示したのは鳥居のそばまで伸びた参拝の列で、それなりに遠いはずの拝殿まで続いているようだった。柊は行列に並ぶことを内心面倒に思いながらも、岬の言葉に従うことにした。ここで断るようならそもそも神社に来ることもなかったかと思いつつ、柊は岬と共に列に加わった。

 

****

 

「そんなこともあってね、まぁ実家には帰りにくいんだよ。まぁそもそも帰りたくもないんだけど。……ミサキくん、ちゃんと聞いてる?」
 ゆっくりと進む列に加わってから10分ほどたち、柊たちは列の半分程度まで進んでいた。ポチ袋はまだ中身を隠したままだった。柊は列に加わってから何度か許可を求めたが、岬はそれを許さず、柊からすれば必要性があまり感じられない内容の話を延々と続けていた。柊は文句を言うことなくそれを聞き流していたが、恐らくは時間を進めることが目的の話である、それを聞き流して文句を言われては黙ってはいられなかった。

「それよりいい加減開けていいですか? 話にしても、時間稼ぎにしか聞こえませんよ?」
「まったくミサキくんはせっかちだなぁ。話だって、私の貴重な身の上話だよ? それを時間稼ぎだなんて。まぁでもいいよ、中が気になって仕方ないんだもんね、開けていいよ。」
 焦らされているから求めているのであって、柊はポチ袋の中身にそれほど関心はなかった。それは岬も当然わかっているのだろう。口調は身の上話を語るそれと異なって、いたずらをする少年のようだった。岬の態度はやはり柊の気に障ったが、今更文句を言う気にはならなかった。柊は疲れ切ったような顔をしながら、ポチ袋の中を取り出した。入っていたのは四つ折りにされた年賀状と、やや新しめの五円玉だった。
「年賀状と、五円玉ね。年賀状は私の手書きだから、大事にすること。お賽銭は柊くんにあげるやつじゃなくて、私がこの神社にお賽銭として入れる分だから、柊くんはちゃんと最後まで列に並んで、自分の分と一緒に入れてね。」
 柊は初めて見る四つ折りの年賀状に驚いていたが、それでも理不尽な要求を聞きとがめずにはいられなかった。
「大事も何もこれをどうしろと言うんですか、それよりなんで僕が岬先輩のためにお賽銭をするんですか?」
「別に本当に大事にしてほしいとなんて思ってないよ、冗談よ、冗談。もうここでの私の用事は済んだし、あと友だちを待たせてるんだよね。来年は柊君も、と思うけど、今年はここで並ぶといいと思うんだ。悪いけど、よろしくね。それじゃ、また部活で。」


 勝手なことを悪びれもせず言うと、岬は列を抜けて去っていった。柊はいつも通り勝手な振る舞いに辟易しつつ、列が整うように並び直した。今さら文句をこぼすことはないが、柊は小さくため息を漏らした。境内の空気は冷たく、しかし不快ではなかった。

うつつうつろにうつりうつろい(2)

 これも違う。これも、違う。お腹を空かせて入ったスーパーで、気分にぴったり合うお弁当を選ぶような難しさ。違うのは、お弁当なら妥協ができるが、ここではそれができないことだ。一方、少し困った共通点がある。色々見ているうちに、元々求めていたものが分からなくなることだ。これは、多分違う。いや、確かに違う。違うはずだ……。

 

「ミサキくん、ミサキくんってば。聞こえてますかー?」

 柊は、いつの間にか隣に座っていた岬の声で現実に引き戻された。スマートフォンから流れる音楽は、人の声が聞こえないほどの大音量ではなかった。音楽にかなり集中していたのだろう。素早くイヤホンを取り外し、柊は謝罪する。

「すみません、少しぼうっとしていました。以後気をつけます。それはそれとして、お疲れ様です。」

 岬に気を悪くした様子はない。人を小ばかにしたような表情と声は、いつもと変わる所がない。

「柊くんこそ、お疲れ様。仕事量を増やした淡ちゃんが言うのもなんだけれど、あまり根詰めないことだよ。心頭滅却して灰になられては、誰の得にもならないからね。まぁ、ほどほどに無理をしてくれたまえよ。ところで、柊くんも音楽をじっと聴くなんてことがあるんだね。淡ちゃんは勝手に、柊くんは文字しか愛せないのだと決めつけていたよ。何だろう、悪かったね。」

 岬はまったく悪いと思ってなさそうにそう言う。返答する柊も、岬の認定に反論する気ははなさそうだった。

「文字しか愛せないわけではないつもりですけど、実際音楽をただ聴くことは滅多にないです。僕に音楽は曖昧過ぎてよくわかりません。今日は少し、思うところがあっただけです。」

「いつも主張のないミサキくんの、思うところ! それはぜひご高説賜りたいところだねぇ!」

 岬は愉快気な様子を隠さない。高慢な政治家を風刺したような、岬一流の、あの雰囲気を醸し出し始めている。

「大した話ではないですよ。あと、これはいつも言っていますけど、下の名前で呼ばないでください。それで、言わなきゃ駄目ですか?」

 岬のからかうような口調に対する不快感は言葉だけで、柊はむしろどこか申し訳なさそうに言う。その様子は何かを恐れているようでもあった。岬もそんな柊の様子から何かを感じ取ったようで、その表情と口調とは、優しさを感じさせるものに変わっていった。

「駄目ってことはないし、嫌なことを強制するつもりはないよ。でも私には、柊くんは日頃から過度に秘密主義に感じられる。多分柊くんはもう少し警戒心を緩めた方がいいし、何より私はもう少し気を置かずに接してもらえると嬉しいかな。」

 柊は少し黙っていたが、話すかどうか迷っていると言うよりかは、話すための言葉を探しているようだった。

「名前を知らない曲を探しているんです。」

「名前を知らない曲?」

 岬は予想を外したからか、話の筋が見えないからか、訝し気に繰り返した。

「はい。窓の外から聞こえてきた曲で、曲調からして多分西洋のクラシックです。」

 柊の何かを恐れるような様子はすでに消えていて、いつも通りの、外界に無関心気な雰囲気に戻っていた。

「名前の分からないクラシック……。録音とかはしてあるの?」

「してないです。すぐに聞こえなくなってしまったので。適当にクラシックのメドレーを検索して、見つからないものかな、と。」 

 岬はふむふむ、と曖昧に発音しながら、なにやら思案顔である。柊はその顔を見て、この後の展開を読むことができた。岬が話の途中に間を設けてこの顔をしたときには、一旦少し遠くに離れる準備をしているのだ。今の文脈に思い通りの回答をするため、あるいは思い通りの場所に人を誘い込むため、一度迂回する。その迂回路に案内されるとき、柊はいつも迷子になったような気持ちになる。しかしそれでいて、何となく心地よい道なのだ。あるいはこの道を歩くことが、本当の目的であったかのような。柊は岬のこの話し方に実用上の欠点があると考えていたが、実のところ非常に好ましく感じていた。柊にとってそれは、数少ない感じ得る詩的なるものに思われたからだ。

「私は昔、夢を見た気がするんだ。」

 柊の随想は、岬のいつにも増して曖昧な言葉によって中断された。それにしても、夢か。

これは望み薄かと考えつつ、柊は期待で胸を膨らませた。